もしもルワンダ「ジェノサイド」が1つの教室で起きていたら

日本人の中でルワンダといえば、真っ先に思い浮かぶのは1994年の「ジェノサイド」という人はまだ多いかと思います。

しかしそんなジェノサイドでさえ、なんとなくしか知らない方がほとんどではないでしょうか?

この事件の発端はかなり昔までさかのぼりますし、各当事者の政治的な思惑も関係しているため説明するのは簡単ではありません。

私も勉強不足で全てを理解している訳ではありませんが、ルワンダで情報発信をする立場として、それがたとえ悲劇であってもその歴史に少しでも興味を持ってもらえたら嬉しいと思い、

「もしこのジェノサイドが、1つのクラスで起こっていたら」という例えでこの事件を解説してみたいと思います。

「ジェノサイド」が1年2組で起きていたら

1学期:担任による差別・クラスの対立(生徒40人)

ここは1年2組。生徒は40人。このクラスではベルギー人の担任のいう事を聞かなければなりませんでした。

当時、ルワンダの宗主国はベルギーであった。

このクラスの中には<フツ>と呼ばれるグループと<ツチ>と呼ばれるグループが存在しており、互いに対立していました。

ベルギー人の先生は、クラスの生徒たちを平等に扱おうとはしませんでした。数の多い<フツ>を贔屓(ひいき)した方がクラスが安定すると考えていたし、<ツチ>の生徒たちが反抗的な態度をとるのが差別の理由です。

宗主国であったベルギーは国際的な流れを受けて多数派のフツを支持するようになり、ベルギー統治時代の初期にはハム仮説を最も強固に支持していたカトリック教会もまた、公式にフツの支持を表明した。ベルギーの方針変化には、急進的な独立を求めるツチに対するベルギー人の反発や、ベルギーの多数派であるフランデレン人がかつて少数派のワロン人に支配されていた歴史的経緯に由来するフツへの同情、多数派であるフツへの支持によってルワンダを安定化する考えがあったとされる。

引用:Wikipedia

ある日、<フツ>のリーダー格の生徒が<ツチ>の生徒に襲われました。これをきっかけに<フツ>は<ツチ>のリーダーを殺してしまいます。またクラス全体で<ツチ>をイジめました。

怒った<ツチ>もやり返します。<フツ>のリーダーを仕返しに殺してしまったのです。

そんな中、1959年11月1日の万聖節の日にパルメフツの指導者の1人であったドミニク・ンボニュムトゥワがツチの若者に襲撃された。その後、ンボニュムトゥワが殺害されたとの誤報が流れ、これに激怒したフツがツチの指導者を殺害し、ツチの家に対する放火が全国的に行われた。そしてツチ側も報復としてフツ指導者を殺害するという形で国内に動乱が広がった。

引用:Wikipedia

1学期の間イジメは続き、さらに1人の<ツチ>が殺されてしまいます。

<フツ>が怖くなったAさんとBさんは1年1組へ、CさんとDさんは1年3組へと逃げました。

1学期だけで1年2組は3人の生徒が殺され、4人の生徒が他のクラスに逃げてしまいました。

1959年から1967年までの期間で2万人のツチが殺害され、20万人のツチが難民化を余儀なくされたことが知られている。

引用:Wikipedia

 

2学期:学級委員長が死んでイジメが激しくなる(生徒33人)

1学期のうちに担任の支配を逃れた1年2組は自分たちでクラスをまとめようとしていました。

1962年、ルワンダはベルギーから独立しています。

一方で、一度は1年1組に逃げたAさんとBさん。2人を中心に2組にもどろうとRPFという名前のチームを作って戦う準備をして戻ってきました。

1959年以降、周辺国へ逃れた多数のツチ系難民は、1980年頃に政治的組織や軍事的組織として団結するようになった。(中略)

1987年になると新たにルワンダ愛国戦線(RPF)を結成し、ルワンダへの帰還を目指すようになった。

引用:Wikipedia

ある時、学級委員長のハビャリマナさんの提案で仲良くする約束をしたものの、険悪なムードはなくなりませんでした。

1993年8月には、ハビャリマナ大統領により停戦命令が下され、ルワンダ愛国戦線との間にアルーシャ協定が成立したが、その後もルワンダ愛国戦線の侵攻による北部地域におけるフツの大量移住や、南部地域のツチに対する断続的な虐殺行為などを含む紛争が続いた。

引用:Wikipedia

そしてクラスで事件が起こります。学級委員長だったハビャリマナさんが事故で亡くなってしまいます。

<フツ>と<ツチ>側のRPFは「お前たちが殺したんだろ」お互いを責めました。

これがきっかけで<フツ>は「<ツチ>を全員殺してしまおう」という事になりました。

1994年4月6日、ルワンダのハビャリマナ大統領とブルンジのンタリャミラ大統領の搭乗する飛行機が、何者かのミサイル攻撃を受けてキガリ国際空港への着陸寸前に撃墜され、両国の大統領が死亡した。攻撃を仕掛けた者が不明であったため、ルワンダ愛国戦線と過激派フツの双方が互いに非難を行った。そして、犯行者の身元に関する両陣営の意見は相違したまま、この航空機撃墜による大統領暗殺は1994年7月まで続くジェノサイドの引き金となった。

引用:Wikipedia

責任感の強かったもう一人の学級委員、アガート・ウィリンジイマナさんはなんとかこの残酷なイジメをやめさせようと、ベルギー人の担任や他の学年の人たちの力も借りて動き始めました。

しかしうまくいかず、それどころか学級委員もベルギー人の先生も他の学年の人たちも、みんな殺されてしまいました。

4月6日から4月7日にかけて、旧ルワンダ軍 (FAR) の上層部と国防省の官房長であったテオネスト・バゴソラ大佐は、国際連合ルワンダ支援団のロメオ・ダレール少将と口頭で議論を行った。この時ダレール少将は、法的権限者のアガート・ウィリンジイマナ首相にアルーシャ協定に基づいて冷静に対応し、事態をコントロールするよう伝えることをバゴソラ大佐へ強く依頼したが、バゴソラ大佐はウィリンジイマナ首相の指導力不足などを理由に拒否した。最終的にダレール少将は、軍によるクーデターの心配はなく、政治的混乱は回避可能であると考えた。そしてウィリンジイマナ首相を保護する目的でベルギー人とガーナ人の護衛を送り、7日の午前中に首相がラジオで国民に対して平静を呼びかけることを期待した。しかし、ダレール少将とバゴソラ大佐の議論が終わった時点でラジオ局は既に大統領警備隊が占拠しており、ウィリンジイマナ首相のスピーチは不可能であった。この大統領警備隊によるラジオ局制圧の際、平和維持軍は捕虜となり武器を没収された。さらに同日の午前中、ウィリンジイマナ首相は夫とともに大統領警備隊により首相邸宅で殺害された。この際、首相邸宅を警護していた国際連合ルワンダ支援団の護衛のうち、ガーナ兵は武装解除されたのみであったが、ベルギー小隊の10人は武装解除の上で連行された後、拷問を受けた後に殺害された。

引用:Wikipedia

<フツ>は<ツチ>のことを「ゴキブリ」と呼んで1人残らず殺そうとします。<ツチ>だけでなく<ツチ>を守ろうとする<フツ>の生徒たちも殺されてしまいます。

RPFチームもだまっていません。<フツ>を倒していきます。

結局、この残酷なイジメは100日間近くも続き、Aさんたちが作ったチームが<フツ>をまとめて、イジメをする<フツ>をなんとか止めることができました。

1学期のはじめにいた40人の生徒たちは、30人にまで減ってしまいます。

ハビャリマナ大統領が暗殺された4月6日からルワンダ愛国戦線が同国を制圧する7月中旬までのおよそ100日間に殺害された被害者数は、専門家の間でも未だ一致が得られていない。(中略)

ルワンダ政府の推定によれば、84%のフツ、15%のツチ、1%のトゥワから構成された730万人の人口のうち、117万4000人が約100日間のジェノサイドで殺害されたという。

引用:Wikipedia

3学期:平和なクラスがもどる(生徒30人)

「RPF(ルワンダ愛国戦線)」のAさんは学級委員長になって、「もう<ツチ>とか<フツ>とか区別するのはやめよう。みんな同じ<2組の仲間達>だ」そう言ってクラスをまとめようと必死に頑張りました。

RPF(ルワンダ愛国戦線)の司令官だったポール・カガメ氏は2000年~現在までルワンダの大統領である。

3組に逃げていたCさんやDさんも戻って来て、今はみんな助け合いながらとても平和で素敵なクラスをつくろうと頑張っています。

この記事を書いた理由

身近に感じてほしかった

ルワンダの虐殺をテーマにした『ルワンダの涙』。

ルワンダで活動をしていたフランス人ジャーナリストがボスニアで仕事をしていた時とルワンダ虐殺の現場を比べてこんなことを言うシーンがあります。

去年ボスニアで同じ気持ちに

毎日泣いてた

それが ここでは… 涙がでないの

ボスニアの白人女性の死体を見ると連想したの

これが母だったらと

ここの死体はただの死んだアフリカ人

私たちは自分勝手な人間なのよ

引用:『ルワンダの涙』

「ただの死んだアフリカ人」この表現を聞いてゾッとしました。

なんてヒドイ表現だと思いましたが、実際に彼女と同じ状況に置かれたら自分はどう感じるんだろう?結局は人種の違う「他人」なのか?そうも考えました。

平和ボケかもしれませんが、そんな風には思えませんでした。絶対に嫌です。

ルワンダに8か月住んだだけでも、虐殺のことは友達や同僚のことを考えるとめちゃめちゃツライ。自分の中で日本とルワンダの間にある心の国境が少しずつ薄れてきているのかもしれません。

ルワンダに来たことのない方は、もしくは来ていても旅行くらいでは、ルワンダとの心の距離は遠いままかもしれません。

なので「もしもルワンダジェノサイドが1つの教室で起きていたら」と例える事により、話としてこの悲劇をもう少し「自分の側」で知ってもらうきっかけになったらなというのがこの記事を書こうと思った理由です。

けっこう前から書きたかった記事ですが、ルワンダをよく知らない自分が書くのは気が引けて書けませんでした。

8か月という期間がルワンダを知るのに十分な期間だとは思っていません。でもルワンダが本当に好きで、半年以上ルワンダ人と時間を共にしてきた今なら、この記事を書いても良いかなと思えたんです。

 

ここまで読んで頂きありがとうございました。

この話は決して厳密にジェノサイドを描写したものではないので、詳しい情報はWikipediaなどでご確認いただければと思います。

この記事をシェアすると幸せになるとか、ならないとか!

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