キルケゴール『死に至る病』解説~挫折ポイントにしぼり、図解を使ってわかりやすく~

こんにちは、アフリカ在住ブロガーのぴかりん(@dujtcr77)です。

みなさん、キルケゴールの『死に至る病』を読んだことがありますか?
もしくはこの記事を訪問してくださったということは、読んでいる最中かもしれません。

古典や哲学書は、張り切って買ってみたはいいものの「難しい」「言い回しがくどい」などの理由で挫折することの多いジャンルです。

特にこの『死に至る病』は個人的に挫折率はかなり高い方だと思います。

その理由はただひとつ。

最初に大きな2つの挫折ポイントが潜んでいるんです。

当記事では、大きく以下のような流れで『死に至る病』を読み解いていきます。
必要・興味に応じて読み進めて頂ければ幸いです。

  • 『死に至る病』の冒頭で挫折する理由
  • 読み方のコツ
  • 冒頭箇所の解説
  • さいごに
  • (おまけ)『死に至る病』を書いたキルケゴールの生涯

『死に至る病』の冒頭で挫折する理由

挫折ポイント①ゴリゴリのキリスト教からはじまる(最初だけ)

『死に至る病』では、本論に入る前に「緒論」が設けられています。

この出だしが以下の通り。
(ここでは理解しようとしなくてもいいので、雰囲気だけみて下さい)

「この病は死に至らず」(ヨハネ伝十一・四)。
それにもかかわらずラザロは死んだ。

キリストの弟子達が、「われらの友ラザロ眠れり、されど我よび起こさんために往くなり」
というキリストのその後の言葉の真意を理解しなかったとおきに、キリストは弟子達に直截にこう語った、

ー「ラザロは死にたり」(十一・十四)。

かくてラザロは死んだ、…

引用:『死に至る病』(岩波文庫)※以下、引用はすべて同じ

思いっきり聖書の引用からはじまるんです。

いやラザロって誰やねん!
キリスト教が強い!

こう思ってここで離脱してしまう可能性があります。

しかしご安心を。
緒論は4ページほどで終わり、それ以降は聖書の引用はありません。

(余談)聖書は読んでおいた方が良い

私は無宗教です。
しかし『死に至る病』に限らず、また古典に限らず、もし本を読むのであれば聖書は読んでおいて損はないと思います。

なんと言っても聖書は世界一のベストセラー

今みなさんが読んでいる本を書いている人も、これから読む本の著者も、聖書に影響を受けている可能性が高いのです。

もしくは『死に至る病』のように引用されている場合も珍しくありません。
(古典に限らず、たとえばマンガ『テラフォーマーズ』なんかにも出てきますね。)

かと言って、正直わたしも特別詳しいというわけでなはありません。
かつては「聖書?キリスト教?全然わからん、無理無理!」という状態でした。
なので、入門書を読んでからすこしずつ聖書を読んで理解に努めています。

もし、私のようにアレルギーを解消する程度で良いのであれば、以下の2冊がおすすめです。

私はこれらをサクッと読んでイメージを掴んでから、本格的に読み始めたい場合。

挫折ポイント②冒頭が意味不明

挫折ポイントに戻ります。

キリスト教の壁を越えたと思ったら最大の難所が本論の最初にやってきます
(ここも、後で解説するので理解しなくて構いません)

人間とは精神である。

精神とは何であるか?
精神とは自己である。

自己とは何であるか?
自己とは自己自身に関係するところの関係である。

すなわち関係ということには関係が自己自身に関係するものなることが含まれている

二つのものの間の関係においては関係それ自身は否定的統一としての第三者である。

それら二つのものは関係に対して関係するのであり、それも関係のなかで関係に対して関係するのである。

最初っからこの調子。

「二つのものは関係に対して関係するのであり、それも関係のなかで関係に対して関係する」
もう「関係」言いたいだけなんじゃないかってレベルで意味不明ですよね。

ここが2つ目の挫折ポイントです。

読み方のコツ

いくら冒頭が難しいからと言って、途中で読むのを辞めてしまってはもったいない。

なぜなら、『死に至る病』はこの冒頭が最大の難所

ここを超えれば、決して簡単というわけではありませんが冒頭に比べれば楽に読み進めることができます。

そこで、以下のことに注意をして読み進めることで序盤での脱落を防ぐことができます。

わからなければ飛ばす

考えてもわからない場合は、いったん飛ばして読み進めましょう。

後でわかりやすく言い換えられる場合、全体を把握してはじめて納得がいく場合があります。

細部にこだわって前に進まないとそれこそ挫折の原因になってしまいますからね。

この記事では極力わかりやすく解説しているつもりですが、私も一度読んでこの記事を書いた身です。
知らないうちに全体像を前提としてお話してしまっているかもしれません。

7,8割の理解でも、まずは全体を把握するようにしてみてください。

図で理解する

本書に限らず哲学書や古典の類はとにかく表現が回りくどく感じます。

こういった場合、ムキになって文章だけで理解しようとするのではなく図解してみると意外とスッと理解できたりします。

当記事でも要所要所で図を使って解説しているので参考にしてみて下さい。

では、解説に入ります。

第一編 一、絶望が死に至る病であるということ。

自己とは?

A、絶望は精神におけるすなわち自己における病であり、そこでそこに三様の場合が考えられうる。

こうはじまる見出しは、以下のように続きます。

  • 絶望して、自己を持っていることを意識していない場合(非本来的な絶望)
  • 絶望して、自己自身であろうと欲しない場合
  • 絶望して、自己自身であろうと欲する場合

しかし急にこれに関する説明がはじまるわけではありません。

本文は以下のようにはじまります。

人間とは精神である。精神とは何であるか?精神とは自己である。

「人間」=「精神」=「自己」であると言っています。

そしてここから「じゃあその自己って?」という話へ。

自己とは自己自身に関係するところの関係である、すなわち関係ということには関係が自己自身に関係するものなることが含まれている、

急に迷子になるポイント。

ここら辺から、補助的に図を使って行かないと置いていかれます。

自己と言うのは、自己自身と関係している、その関係のこと。

でもその関係っていうのは、単純に<自己自身⇔関係>ってだけじゃなくて<自己自身⇔関係>という関係に関係するということも含まれていると言います。

関係は把握できても、わかったような、わからないような。

グッと我慢して先に進みましょう。

それで自己とは単なる関係ではなしに、関係が自己自身に関係するというそのことである。

前の文章と同じことを言い方を変えて言っています。

つまり、自己とは<自己自身⇔関係>だけの「単なる関係」ではないのです。

その関係に対して関係してきてはじめて自己。

人間は総合

人間は有限性と無限性との、時間的なるものと永遠的なるものとの、自由と必然との、綜合である。

綜合とは二つのものの間の関係である。

しかしこう考えただけでは、人間は今だなんらの自己でもない。

人間は「有限性と無限性」「時間的なるものと永遠的なるもの」「自由と必然」との綜合です。

しかしこれだけだと図2において示した「単なる関係」にあたるため、単に二つのものの間の関係では自己ということはできません。

二つのものの間の関係においては関係それ自身は否定的統一としての第三者である。

AとBというものが関係(綜合)しているときに、関係というのは第三者(つまりC)であるということです。

ここでいう関係のことを「否定的統一」と呼んでいます。

「否定的統一」とは

「否定的統一」というのはヘーゲル哲学の用語で、統一されている諸要素の自立態が否定されている統一を指します。

例えば、水は酸素と水素との統一であるという場合に、水の要素としての酸素と水素とは水という化合物の中で自立態を失っています。

これに対し、空気は酸素・窒素等の統一であるという場合に、空気は混合物であるから、酸素・窒素等は空気の中で自立態を保っている。

この事実に「否定的統一」というヘーゲルの用語を適用するならば、水は酸素と水素との否定的統一であるが、空気は酸素・窒素等の否定的統一ではない、ということができます。

参考・引用:否定的統一、die negative Einheit 。cf. 直接的統一

それら二つのものは関係に対して関係するのであり、それも関係のなかで関係に対して関係するのである。

例の「関係言いたいだけやん…」ポイントです。

しかし直後に例が挙げられています。

たとえば、人間が霊なりとせられる場合、霊と肉との関係はそのような関係である。

これに反して関係がそれ自身に関係するということになれば、この関係こそは積極的な第三者なのであり、そしてこれが自己なのである。

人間というのは霊と肉との関係(綜合)と考えられます。
この関係は先ほど説明した「否定的統一」にあたります。

しかしそれだけではまだ自己とは言えず、この霊と肉との「関係」がさらに関係し合うという場合に真の自己になるというのです。

お気づきの方もいるかもしれませんが、この説明は図2と対応しています。

他者による措定

自己自身に関係するところのそのような関係、すなわち自己、は自分で措定したものであるか、それとも他者によって措定されたものであるかいずれかでなければならない。

これまで「自己」とは「関係」だと言ってきたわけですが、この関係というのは自分によって措定されたのか、他者によって措定されたのか、そのどちらかであると言います。

措定とは?

ある事物・事象を存在するものとして立てたり、その内容を抽出して固定する思考作用。
(引用:そ‐てい【措定】 の意味 – goo辞書)

この定義に抵抗がある場合は、「位置付ける」「関係付ける」と考えれば大きく解釈は外れないかと思います。

さて自己自身に関係するところの関係が他者によって措定されたものである場合、無論その関係が第三者なのであるが、しかしその関係すなわち第三者は更にまたその全関係を措定したところのものに関係するところの関係である。

ここでまた一段と意味がわからなくなってきます。

再び図を使いましょう。

「さて自己自身に関係するところの関係が他者によって措定されたものである場合」とあるのは新しい事を言っているわけではありません。

図1を思い出してください。

「自己とは自己自身に関係するところの関係である」と言っていたこの下の「関係」。

これが他者によって関係づけられたものだったら?という話をしているわけです。

つまりこういうこと。

再び図4に戻ります。

「しかしその関係すなわち第三者は更にまたその全関係を措定したところのものに関係するところの関係である。」について。

ここでは、第三者、すなわち他者によって措定された関係というのは、さらに自己と関係するときに、自己たりうるのだと言っています。

どういうことか?ここでは簡単な例を使って理解を深めたいと思います。

私たちは日常的に他者との関係を持ちます。
それだけではあくまで「自分」と「他者」の第三者的な関係でしかありません。
しかしこの関係の中で「自分はどう見えているのか?」と意識したとき、自分と他者との関係について考えている自己が存在します。
この状態こそが、「自分」と「他者」との単なる第三者的関係ではなく、全関係を措定したところのもの、つまり自己になるという訳です。

かかる派生的な措定された関係がすなわち人間の自己なのである、- それは自己自身の関係するとともにかかる自己自身への関係において同様に他社に対して関係するところの関係である。

これは前までの文章の言い換えです。

自己による措定

そこからして本来的な絶望に二つの形態の存じうることが帰結してくる。

そしてここではじめて、「絶望」という言葉が出てきます。

もし人間の自己が自分で自己を措定したのであれば、その場合にはただ絶望の一つの形態、すなわち絶望して自己自身であろうと欲せず自己自身から脱れ出ようと欲するという形態についてのみ語りうるだろう、

ー 絶望して自己自身であろうと欲する形態などは問題になりえないはずである。

「人間の自己が自分で自己を措定」というのは図4の他者が自分にかわったものです。

このような場合には、絶望してもなお「自分自身でいよう」などとは思わずに、自分自身であることから逃れようとするのみが考えられるとキルケゴールは言います。

これについての説明が続きます。

それは自己という全関係が全く依存的なものであり、自己は自己自身によって平衡ないし平安に到達しうるものでもまたそういう状態のなかにありうるものでもなしに、ただ自己自身への関係において同時にその全関係を措定したものに対して関係することによってのみそうでありうることを示しているのである。

そもそも自己というのは依存的なものであり、その全関係を措定したものとの関係によってのみ自己たりうるのです。

自己に絶望して逃げ出したいと思った場合。
その「全関係を措定したもの」が自己である場合、絶望して逃げようとしても不可能です。

ここまでの、関係を自己によってした場合の絶望について要点をまとめると以下のようになります。

  • 絶望して自己自身でいようとは思わない
  • しかし結局、全関係を措定したのは自分だから自己から逃れることは不可能

このように整理して次の文を読むとある事実がわかります。

絶望の還元されるところ

それ故にまた絶望のこの第二の形態(絶望して自己自身であろうと欲する形態)は単に絶望の一種特別なものにすぎないものなのでは断じてなく、むしろその逆に結局あらゆる絶望がその中に解消せしめられそれへと還元せしめられうる所以のものである。

「絶望して自己自身であろうと欲する」というのは、あらゆる絶望の行きつく先であると言います。

しかし自分で全関係を措定した場合には自己自身であろうと欲することはありません。

つまりキルケゴールは、結局自己自身で全関係を措定するのは無理で、「全く依存的な」自己というのは他者に措定されるという方向へいくことになるのであると考えているのです。

だからもし絶望状態にある人間が、自分では自分の絶望を意識しているつもりでおり、そしてむろん絶望のことをどこからか落ちかかってくる災難みたいに話したりするような馬鹿なことはせずに(それはいってみれば眩暈(めまい)している人間が、神経の錯覚で、何かが頭の上にのっかっているとか何か自分の上に落ちかかってくるようだなどと語るようなものである、実際はこの重みや圧迫は全然外的なものなのではなしに、内面的なるものの倒錯した反映にすぎないのだが)、自分ひとりの全力を尽くして自分の力だけで絶望を取り去ろうとしているようなことがあれば、彼はなお絶望のうちにあるのであり、自分ではどんなに絶望に対して戦っているつもりでいてもその苦闘ははえっていよいよ深く彼をより深刻な絶望のなかに引摺(ひきず)り込むことになるのである。

これはここまでの内容を、例えを用いて言い換えています。

絶望における分裂関係は決して単純な分裂関係ではないので、自己自身に関係するとともに或る他者によって措定されているという関係における分裂関係である、- したがってかの自分だけである関係のなかでの分裂関係は、同時にこの関係を措定したところの力との関係のなかで無限に自己を反省するのである。

新たに「分裂」という話がでてきました。

そもそも「自己」とは綜合(統一)関係でした。
絶望というのは、その自己の統一を分裂させるということなのです。

そこで本文の解釈に移ると、「自分だけである関係のなかでの分裂関係は、同時にこの関係を措定したところの力との関係のなかで無限に自己を反省する」というのは以下のような状況。

図6における「自己によって全関係を措定」した場合。

絶望においては全関係を自分で措定している限り、結局また自己に行きつき、また自己に絶望して自己に行きつき…ということを無限に繰り返すことになります。

そこで絶望が全然根扱(ねこそ)ぎにされた場合の自己の状態を叙述する定式はこうである、
ー 自己が自己自身に関係しつつ自己自身であろうと欲するに際して、自己は自己を措定した力のなかに自覚的に自己自身を基礎づける。

最後にいったん絶望というものを考えずに、自己についてここまでのまとめをしています。

さいごに

これが『死に至る病』の本文冒頭4ページです。

「え、4ページ読むだけでこんなに大変なの?」
「やっぱり読むのは諦めよう」

こんな気持ちになってしまう人もいるかと思いますが、冒頭で述べた通りここが一番のヤマ。

あとはここで理解したこと、また冒頭を読んで身につけた読み方を武器にすれば読み切ることは可能なはずです。

『死に至る病』あ絶望について書かれた本。
本書を読もうと試みた多くの人が、キルケゴールの意図していないところであまりのわかりにくさに絶望したことでしょうね…

この記事で1人でも多くの人がその絶望から抜け出して、読破への橋渡しになれば幸いです。

 

(参考) キルケゴールの生涯

おまけとして、『死に至る病』の著者・キルケゴールの生涯を簡単に紹介します。

古典を読む場合は特に、著者の生まれ育った背景やどんな人生を送ったかを知ることは理解を助けてくれます

しかし『死に至る病』の解説という観点では本論とはずれてしまうので(参考)として末尾にて紹介させていただきました。

裕福な商人の家に生まれる

キルケゴールは1813年、デンマークのコペンハーゲンで、富裕な商人の家庭に生まれます。

「キルケゴール」という名前は、もともとはあだ名だと言われています。

彼の先祖が教会の屋敷のなかの牧師館を借りて住んでいたので、キルケ(教会)ゴール(庭)、と呼ばれ、それがそのまま家名となりました。

厳しい父に英才教育を受ける

熱心なクリスチャンであるセーレン・キルケゴールの父・ミカエルは末っ子だった彼にひとり厳しい英才教育を享けさせました。

その厳し過ぎる教育により、知能はとびぬけていましたが性格は内向的に。

17歳になったキルケゴールは大学へ進み神学と哲学を学びます。

そこで出会ったのがヘーゲル哲学でした。

一時はヘーゲル哲学の影響を受けるキルケゴールでしたが、ヘーゲルの考えた「絶対観念論」に疑問を持ち、自分の思考を展開させていきます。

父からの告白

異常なまでに厳しい父の教育。

その理由を父ミカエルからある日聞かされることになります。

若いころにつらい経験をしたミカエルは、神を呪いました。
その日を境に、自分は成功し続ける一方で家族や他の者は失敗したり惨劇に巻き込まれるようになります。

「自分がいくら成功しても家族や周りの人々は消えていく」

これが神による呪いだと考えたミカエルはセーレンだけでも敬虔な人間にして神の下に仕えさせ、家族の死を免れようとしました。

しかしそれも空しく、家族は次々に死んでいきます。

あれだけ厳しい教育をしても報われなかったミカエルは、「もう無理して勉強をする必要はない」と言いキルケゴールは信じていたものを急に失ってしまいます。

その後のキルケゴール

父の突然の告白に驚き、怒り、一度は退廃的な生活を送るキルケゴール。

しかしキルケゴ―ルは自分と向き合って父の死の間際に和解、再び勉強にも精を出し規則正しく生き始めました。

社交の場にも顔を出すようになったキルケゴールは良家の少女・レギーネに恋をします。
レギーネと婚約をするものの、それを一方的に破棄してしまいます。

その後彼は人間が直面する困難について注意を向けるようになり、私財をなげうって執筆活動に入っていくのでした。

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「まんがで読破」シリーズでは『死に至る病』版も出ています。

しかし、『死に至る病』の内容解説というよりは著者であるキルケゴールの生涯やその基本思想メインで描かれています

なので、この記事を見てキルケゴールという人物に興味を持った方にはおすすめです。

 

 







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