【いのち愛しむ】マニャの死と死刑囚・島秋人さんの短歌から「いのち」を考える

先日飼っていたウサギのマニャちゃんが亡くなってしまい、凹みながらも珍しく「いのち」について考えていました。

そんなとき金八先生第5シリーズを見ていたら、死刑囚・島秋人さんという人が紹介されていました。

島秋人さんは死刑囚でありながら同時に歌人であり、死刑執行後には『遺愛集』という歌集も出版されています。

彼の歌にとても心を打たれたので紹介したいと思います。

島秋人とは?

事件の経緯と概要

1934年現在の北朝鮮で生まれた。

父親は旧満州や朝鮮で警察官をしていたが、その経歴ゆえに戦後公職追放の憂き目に会い、母親も結核に罹患したうえに栄養失調で死亡し貧しい暮らしをしていた。自身も脳膜炎や蓄膿症、中耳炎など複数の病気に罹患し、それゆえ学業成績も不良であった。

中学校卒業後、職業を転々とし強盗殺人未遂事件といった刑法犯を重ねるなど非行少年となり、特別少年院送致となり20歳まで収容されていた。

少年院退院後、頭痛が続くことから労働意欲がなくなり刑務所に入る為に雨宿りした空き家を放火し懲役4年の判決を受けて服役、しかし刑務所で「ヒステリー性性格異常」と診断され医療刑務所から出所したのは1958年10月であったが、そのまま翌年2月まで精神病院に入院した。

1959年2月に退院後家族の下で生活を始めたが、3月下旬に東京に行きたいと家出して、放浪生活に入った。

4月5日、餓えに耐えかねて新潟県の農家に押し入り、農家の主人(当時51歳)に重傷を負わせ、妻(当時43歳)を殺害する強盗殺人事件を引き起こす。この事件では、窃盗にはいった家で妻に見つかり居直り強盗になったもので、夫婦と同家の10代の子供2人の4人を縛り上げたうえ、現金2000円と背広やスーツケースなどの物品を奪い、逃走する際に事件の発覚を恐れ凶行におよんだものである。夫は殴打され重傷を負い失神したのを殺害したと思ったが妻を絞殺した。

1960年3月に新潟地方裁判所長岡支部は「数多くの凶悪事件の前科と長期の服役という前歴があるうえ、さらに本件を起こし、情状酌量すべき点はない」として死刑判決、1961年3月に東京高等裁判所で控訴棄却、1962年6月に最高裁判所で上告棄却され、死刑判決が確定した。

Wikipediaより引用

獄中で短歌に目覚める

刑務所の独房で自分の半生を振り返る島秋人さん。

人から1度も愛されたことのない人生。

人から1度も褒められたことのない人生。

なんども振り返っていくうちに、少年時代にたった1度だけ褒めてくれた人を思い出します。

それは、中学校の美術の先生でした。その授業中に島秋人さんのもとにやってきてこう言います。

「君は、絵が下手だが構図が良い」

これだけのことを思い出した時に彼はたまらなく嬉しくなり、「死刑になる前にあの先生に手紙を書こう」と決意します。

受け取った先生は数多くいる教え子の中から、印象の薄かった彼の顔すら思い出すことは出来ませんでした。

しかしその先生は一生懸命返事を書きました。それを見た先生の奥さんは手紙に添えて3首の和歌を送ります。

和歌に触れて感激した島秋人さんは「なんとか自分も和歌を作ろう」と懸命に和歌を作ります。

白き花 つけねばならぬ 被害者の 

児に詫び足りず 悔いを深めし

死刑囚と なりて思えば いくらでも 

生きる仕事 ありと知りにき

和歌の才能を認められた島秋人さんは詩集を出すように勧められますが、

「被害者のご遺族の方がいるのでそれは出来ません。私が死刑になった後ぜひその歌集を出してください」と頼みます。

昭和42年11月2日、島秋人さんに死刑が執行される日。

彼は絞首台の下に行ってもなお、和歌を作り続けます。

土ちかき 部屋にうつされ 処刑待つ 

ひととき温き いのち愛しむ

絞首刑台の下で、自分の体を触ってみる。

そうすると自分の身体があつい。

「ああ、いのちって愛おしいなあ。今生きているって素晴らしいことだな」そう歌を詠みました。

参考:金八先生 第5シリーズ 第10話

いのち愛しむ

ウサギのマニャの「死」という経験がなければこのシーンはもう少し自分の心に響いていなかったかもしれません。

若くして亡くなってしまったマニャはとても可愛そうで申し訳ない気持ちがある反面、大切なことを教えてくれたマニャには感謝しています。

自分のいのちも、友のいのちも、動物のいのちもみんな愛おしんで大切にしていきたいなあ、なんて珍しくしんみり考えてしまいました。

 

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